副産物にこそ価値があるんじゃないかと

2週間に一度、図書館に行く(返却サイクル)

本が好き、というほどの読書家でもない。ただ紙の感じや印刷のにおい、活字が詰まってるのは好きだし、本の内容にものめり込むこともある。だから結局、たぶん好き寄りなんだろう、として書いていく。

本が見切れた机の上の風景

ページをめくる音

中でも好きなのはページをめくる音だ。これが読書からの副産物で、制作にも影響してる。

擬音だと「ぺらぺら」になるんだろうけど、全然「ぺらぺら」という音はしてなくて、なんとも形容しがたい音をしている。あの音は本当に好きで、紙と紙がこすれる音は落ち着くし、少しワクワクする。

すごく無機質で良い。普段パソコンやスマホを使ってると、意味ありげな効果音に満ち溢れているから、アナログなモノが出す音には余計反応してしまうのかもしれない。

だからぼくは曲中に環境音を入れたくなることがある。特に自然的な音は好きだ。音楽という意図して配置された音の連続の中で、馴染みある自然音が入ると現実に戻されたようでハッとする。制作にすごく助けられている。

また、ページをめくる音に集中してると周りの音にも気づくようになる瞬間があって「世界は音に満ち溢れてるなぁ〜」と、それっぽい世界に浸ることができる。

本来は楽しむ、暇つぶし、趣味、みたいなのが読書の目的なんだけど、副産物として制作のヒントになったりする。

副産物を目的にしない

読書の副産物といえば、歌詞もそうだ。実際、本の言葉やテーマから歌詞を書くこともある。でも、それを目的に本を読んでいるわけではない。

それは「副産物を目的としたら、その副産物は得られない」というぼくの持論がある。つまり、副産物を本産物(?)にするのはナンセンスということだ。

例えば、歌詞に使える言葉を探そうという意識で本を開いたとて「どれが歌詞に使えるか」という意識で活字を追いかけてしまう。

ぼやけたキーボードのキー

これが罠で、本来その活字たちは文脈の中で生きている。だから、小説なら前後、あるいは最初からの流れの中でしか、その活字の本当の良さは見えてこない。歌詞に使えそうな言葉を探して本をめくるのは、単語を調べてるという行為にすぎなく、本当に歌詞のヒントになるのは、単語ではなく文脈から生まれる感情だ。

そうなると、本をちゃんと読んでるほうがその感情に出会いやすい。となればやはり目的は「読書を楽しむこと」で、その副産物として「引っかかる言葉との出会い」がある。もちろん、歌詞に使いたいという欲は心の奥にあるから、もし心に引っかかったり感情が動いたらメモする行動をしとかなきゃいけない。

散歩もそんな位置付け

話が少しだけそれるけど、ぼくにとっては散歩もそんな位置付け。歩いてたらアイディアが生まれる〜と散歩するんじゃなくて、運動不足解消とか眠気覚まし、景色をぼーっと眺めるというのが本来の目的。たまにふっとアイディアや問題解決の糸口が頭に浮かぶ。まさに副産物。

物事や考え、悩みや問題解決など、世の中って本当に複雑にいろんなことが絡み合ってるし、伏線だらけだ。

あの時のこれが今生きてくるのかー!ということもある。それってまさに「副産物」の連続発生によるものかもしれない。

効率ばかり重視してると

そんなことを書いてると「効率ばかり重視してると、副産物を取りこぼすんじゃないか…!」ってふと考えた。大げさかもしれない。

でも、即効性のある役に立ちそうなことばかりに目を向けていると、その時点ではなんの役に立つかわからないものを取りこぼす可能性もある。これはもはや、もったいない精神なのかもしれない…

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