自分の言葉で喋ってることって最近あるんだろうか?とめちゃくちゃネガティブなことを考えた。そして落ち込んだ。
落ち込んだといってもこれをブログに書こうと思ってこうして深夜のベッドでスマホに下書きを書いてるので、大したダメージはない。

自分の言葉で自分の考えを発言する、というのは本質的には不可能に思える。誰かの言葉、ネットで見聞きしたもの、学校や仕事で学んだことなどからの影響は計り知れない。
それらを排除すると、なんにも言葉が出てこないような気がする。
だから本質的なことは置いといて…というかそれは無視するしかない。ぼくはそこの知識は全くない。
ここぞとばかりに頻出する必殺技コメント
ぼくが「自分の言葉で喋れてない」と感じたのはSNSや動画を見てて、どこかで聞いたセリフを自分の言葉のようにコメントしてるのが気になったからだ。
たとえば、生の鶏肉を扱う動画のコメント欄には「ギランバレー症候群が〜」という言葉が入る。本当に入る。コメント欄を開くときに「ありそう〜」と思ったらほんとにあるんだ、おもしろい(その時は少し不愉快)
ぼくが気になるのは、もはやプチネットミームみたいなコメントを、自分の言葉のように扱うことに対してだ。
全然それでもいいんだけど、そもそもギランバレー症候群になるのは低確率なように思える。たかが動画のワンシーンでギランバレー症候群になるかどうかの危険性を測ることはできないように思う。
料理をしてたら、生肉を扱うときは確かに気をつけるけど、慣れるとほんの少ししか気をつけない。それに、生の鶏肉を調理する家庭や飲食店は、今晩だけでめちゃくちゃいる。1000万人とかか?わからないけど。
それが毎日続くとして、ギランバレー症候群にかかる人は何人いるんだろう。調べないけど。
話がすっかりギランバレーだけど、こういったわりとみんなが使える必殺技みたいなコメントを見たときに「自分の言葉で喋ったのは最近だといつだろう」と思った。
結局自分も流行にのって助かる人

最近のぼくは、あまり周りの人のことを気にしすぎず行動したり、制作したりできている。自分では健全と思ってる。
だけどこの行動も、昨今の流行だ。「自分軸で生きる」だとか「他人との比較をやめる」だとか。つまりこの行動も受け売りで、自分で考えて編み出した必殺技ではない。
言葉に関してもそうで「否定から入らない」だとか「悪口を言わない」だとか…方法論しか今は思いつかないけど、それも腐るほど見聞きしたことだ。
で、それに見事に助けられて、健全だなと感じている。つまりギランバレーと同じく、受け売りの必殺技で、気持ちよくなっている。同じだ。
自分の言葉にこだわる頑固さはいらないかも
自分の言葉で物事を語る必要はそんなにないのかもしれないと思った。別に、たかが「話」でクリエイティブを発揮しなくてもいい。
なんせ、クリエイティブに自分の言葉で話そうとすると、選択肢がそもそも削られてしまう。単なる逆張りになってないか、これは誰かが言った言葉ではないか、イコールそれを発言することは自分の言葉ではない…のではないか。
だからこだわりすぎると一言も発せれなくなってしまいそうだ。
何に反応してどう感じたかが肝かも
だけど、どう感じたかみたいな直感とか、着眼点とか、そういうのは「自分らしさ」でいいかもしれない。表でいうと評価対象になるので自分の中でそういう自分らしさを大事にしたらいいのかもしれない。
自分の言葉で語るのは上辺でもよくて、つまり自分の言葉じゃなくても良くて、でもおもしろい着眼点とか、そんな発想?みたいなことをする人間でありたいなと思った。
なんならそれを言語化しなくてもいいかもしれない。音楽で、ぼやかした歌詞で創作を楽しんでもいいかもしれない(やっと音楽の話が少し出た)
このブログ、着眼点や発想がおもしろいなと思ってくれれば、と俗っぽいことを考えている。あとギランバレーのくだり、すごく老害みたいだなってちょっと自己嫌悪になった。