
ぼくはかなり毒されている。
「快」を積み重ねるのが音楽かもしれない
変わった音楽とか、おもしろい音楽とか、そういったものを目指している。
とはいえ、ただ奇抜だったり難解にするだけではただ音を羅列するだけの作業になってしまうので、できる限り自分にとっての「快」を積み重ねていくよう努める。それが音楽制作の醍醐味だと思ってる。
もちろんその「快」というものはひとつではない。耳が肥えてくるとストライクゾーンも広くなるもので、良くも悪くも「快」の選択肢が増えてくる。なのでどの「快」をチョイスするのか、というのがセンスを問われるところなのかもしれない。
本質的なところでいうと、ただ身を任せて体を揺らせる音楽であればぼくは満足する可能性が高い。四つ打ちやエイトビートだけをしばらく聴く、というのもアリだし、制作中にそういうことをやったりする、たまに。
「快」というものはその日、その時の気分によって変わることもあるので厄介だ。いやなことがあったら不快が増えたりもする。一時的にストライクゾーンが狭まる感覚。
だから「快」の選択というのは本当に難しい作業で、純度をできるだけ上げて作業したいと思っている(音楽を作るのはその連続なのでとても楽しくて疲れる。楽しいと疲れるは、無邪気な遊びと同じで、セットなのかもしれない)
「快」が濁る感覚

毒されているなぁと思うのは、その「快」の選択肢に他者や世間の評価が入ってくることだ。数字・評判・流行り・マジョリティの意見など、これらを選択肢に入れてしまいそうになる。実際に入れることもある。
それが本来の自分の「快」なこともあるし、そうではない時もある。まずいことに、中途半端に「ここ、こうしたほうがウケるかも〜」という時もあってダサい気持ちになる。
ネットが主戦場のボカロPという立場だと、数字はもろに出て評価軸になる。もちろん数字が出ていなくても何かに繋がることもある、そういう経験もした。だけどやっぱり数字は残酷で、ぼくはまだ心を乱される。そして選択に悩む。自分が信じて気持ちいいなと思っていた「快」が濁る。
表現をすることにビビる
このあたりに加えて、書くとまずいかな、という言葉も増えている。「殺」や「死」という漢字を頑なに隠して表現するのは、BANや炎上の恐れによるものだ。そうするのが嫌だから、そもそも生死やヘイトをテーマに挙げることもほぼなくなった。
商業に乗り切っている音楽を作るならまだしも、創作でこの状態というのは毒されている。毒されているなんていうと世間のせいみたいに聞こえてしまうが、結局のところ自分が振り切れていない、表現しきれないのを誰かのせいにしたいだけなのかもしれない。
「毒」とはなんだろうと
ただし、数字・評判・流行り・マジョリティの意見などを取り入れること=悪、ではないはず。音楽というもの自体がそれが創作であってもある程度商業に乗っている形であることに違いないだろうし、誰かに届いてほしいとか、売れたいとか、評価されたいというのも健全なことだ。
だからそこにこだわることも、自分なりの「快」にはなり得る。じゃあ結局何が「毒」なんだろう、と考えが止まらない。